
「自らの意志で伸ばす手」
それは心を外へと開く触覚。
「ふいに触れられる手」
それは心を内へと開く触覚。
どちらも、世の中との境界を確かめる静かな行為だ。
『人は触れることで広がり、触れられることで深まる』
能動の触覚は、「探究」である。
まだ見ぬ痛みに手を伸ばし、まだ知らぬ喜びを撫でる。
受動の触覚は、「受容」である。
予期せぬ呼びかけに震え、差し出された愛に震える。
心は、与えることと受け取ることの間を往復しながら、ひとつの全体へと収斂していく。
どちらか一方に偏れば、心は硬直し、やがて世の中に触れる力を失う。
だからこそ、人は触れて、触れられて、はじめて「共に在る」という深みに至るのだ。
与えることと受け取ることは、心の呼吸の両翼である。
『心は、触れて触れられて、ひとつの愛となる』
いま触れに行けなくてもいい。
まだ触れられる勇気が持てなくてもいい。
心は「待つこと」を知っているから。
触れられぬときも、触れ合いの内に実はある。
触覚が生を証すように、心の触れ合いは存在を証す。
“あなた”が誰かに触れるときも、触れられるときも、その瞬間は確かに永遠へと刻まれている。
『愛は触れ合うたびに変貌し、しかし消えることはない』
そしてその「変貌」こそが、愛が生きている証なのだ。