
自分の信念と主義と価値観、その全てを捨てることこそが“コンセンサス”である。
私たちは「分かり合うこと」を目指しながら、どこかで「自分を曲げないこと」も手放せずにいる。
けれど、本当に一つになるということは“持っているもの”を差し出すことではなく、“持たないこと”を受け入れることなのかもしれない。
『一致とは、空になることに等しい』
意見の一致は、“調和”ではない。
それはしばしば、“誰かが誰かに折れた”結果であり、“誰かが自分を捨てなかった”証でもある。
真のコンセンサスとは、それぞれが己の信念を抱えながらも、それに執着しないという選択の上に成り立つ。
そこには、勝ち負けも、正しさもない。
あるのは、「無私」に近づこうとする決意だけだ。
自己の輪郭を溶かし合い、空間として共に在るその姿が、はじめて「一致」と呼べるようになるのだ。
『自己を抱いたまま、自己を手放す』
それが一致への最短距離である。
一致とは、誰も勝たず、誰も負けないという約束の上に咲く、無色透明の花。
“あなた”の正しさを捨てる必要はない。
ただそれが、誰かのすべてではないことを、そっと認めるだけでいい。
すべてを分かち合うことではなく、「分かり合えなさ」ごと歩むことができれば、それでいい。
『理解し合えないまま、手を離さないことも愛だ』
「一致」とは、目的ではなく過程に咲くもの。
それは、言葉を尽くしながら、やがて言葉を超えてゆく営み。
誰の声でもない静けさの中に、はじめて「共に在る」という真実が立ち上がる。
分かり合えたときより、「分かち合おうとした時間」が、私たちを繋ぐから。