受け取るではなく与える【ことばの種】

満たされたいと何かを求め願うとき、
人は何かを受け取ろうと手を伸ばす。

けれど、本当に満ちる瞬間は、
何かを与えようとしたときに訪れる。 

「与える」とは、自らの内にあるものを見出す行為だと思う。 
 

『真に与える者は、欠けを抱えたまま誰かを照らす』

それは、尽きることのない源が、自分の中にあったと気づく時間。

与えるという行為には、不思議な力がある。

声高に語られることなく、ただそっと差し出される愛。

それは力の証明ではなく、むしろ「自らの弱さを知っている者」だからこそたどり着ける、静謐な領域に属すもの。

コップの水が満ち、自然にあふれ出すように、
愛もまた、自らの中に満ちたときに、誰かへと流れ始める。

それは自己犠牲を超え、与えることで“自分という存在”がさらに深く目覚めていく、内なる覚悟の営みである。

ほんとうに与える人は、与えることで自らが生かされていることを知っている。

『与えることは、愛のかたちを自らの手で描くこと』

与えなければ、と焦る必要はない。
与えたいと思えない時があっても、何も間違いではない。 

けれど、もしもあなたの中に、誰かを想う気配が生まれたなら、その静かなぬくもりこそが、すでに与えることの始まりである。

『与えたいと思った瞬間に、愛はすでに動き出している』

与えるという選択には、必ず“見えない実り”がある。

それは、言葉にも姿にもならず、ただ心の奥で灯り続ける“見えない光”。

あなたの与えた愛は、誰かの明日を照らす。
   

『光は、自らの影を知らぬまま誰かを照らす』

“見返りのない行為”にこそ、最も確かな種が宿る。

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