
ひとつの言葉が、心を触り、救ってくれるときがある。
名も知らない、会ったこともない誰かのまなざしが、確かに包み込んでくれるときがある。
誰かのことばが、誰かの存在が、自分自身の存在を証明してくれることがある。
我々の人生とは、「見えない証明」を、様々なかたちの“出会い”によって、刻み営んでいくものではないだろうか。
自己という存在は、決して自分ひとりでは完結できない。
『他者の目に映ったとき、はじめて自己の存在に気付く』
ふとした会話、思わぬ理解、何気ない微笑み。
「誰か」なる自己から溢れるそのすべてが、「わたしはここに居る」という最大の肯定である。
『愛されたいから証明したいのではなく、証明されたからこそ、誰かを愛せるようになる』
出会いとは、「自分」という証明書に、「他者」が印を押してくれるような、そんな奇跡であることを知っていてほしい。
『存在とは、愛対する者の中に芽生える、自分という種である』
もし、いまの“あなた”が誰にも証明されていないと感じていたとしても大丈夫。
言葉にならなくても、“あなた”の存在が、すでに誰かに触れていることがあるから。
気付かぬところで、“あなた”の足跡が、光となって誰かを照らしていることがあるから。
ほんとうの証明とは、声高らかに叫ばれるものではなく、日々の出会いと、分かち合った言葉の中で、静かに積み上げられていくもの。
証明しようとするよりも、証される生き方を目指して、日々を歩んでいこう。